その日はかなり物寂しげな気候をしていて、これから始まる寒さを告げているようでした。
二村(イチョン)駅の2番出口を背に300mほど北に進むと、
国立中央博物館の鏡池が見えてきました。
そしてすぐに国立中央博物館の本館にたどり着きました。

中世から20世紀初期まで約650年間、ヨーロッパを支配した最高の一族ハプスブルク王家の輝かしい時代を垣間見ることができます。

ハプスブルク王家といえば、いくつかの見出しが浮かびます。 第一に、オーストリアを拠点にヨーロッパの覇権を握った最高家門であること 第二に、ヨーロッパ王家の中で最も複雑で奇異な近親婚による病、 最後に、熱烈な収集と積極的な後援で及ぼした芸術界の影響力、 この中で最後の項目について話そうと思います。

Mozart Symphony No.41 “Jupiter”

本記事に入る前に、交響曲41番の作品を紹介します(上記で視聴できます) 『ジュピター』とも呼ばれる交響曲41番は、音楽界で最も優れた業績を成し遂げたオーストリアの音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの3大交響曲であり、生前作曲した最後の交響曲として知られており、モーツァルトの天才的な作曲スキルの頂点を見ることができます。

ヨーゼフ2世, ヨーゼフ·ヒッケル作, 1785年頃の油絵

1765年に父フランツ1世の後を継いで神聖ローマ皇帝に在位したヨーゼフ2世は、現実と乖離した改革政治で夢想家扱いされていました。しかし科学と芸術に多くの興味を示し、その中でも特に音楽に関心を持った人物で、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトアントニオ・サリエリなど多くの作曲家を後援しました。その恩恵は、現代のウィーンをはじめとするヨーロッパの都市に溢れるほど反映されています。 このようにハプスブルク王家は1273年から王政が没落した1918年までの約650年の間、代々ヨーロッパ全域にある王室肖像画をはじめ各種芸術品を収集、および芸術家たちを積極的に支援し、絵、音楽のような芸術系統に格別な愛情を与えてきました。 650年間の結実、ヨーロッパの歴史の中心にあるハプスブルク王家のコレクション展示会である 「ハプスブルク600年、魅惑の傑作」特別展に訪れました。

平日のお昼でしたが、観覧客がやまほど訪れていました。
企画展示室の入口では白い服を着た5歳のマルガリータ・テレサ王女が迎えてくれました。
観覧室に入る前、「オーストリア女大公マリア・クリスティーナとザクセンのアルベルトの婚約記念晩餐会」を背景に作られた本イベントの壁画が見え、胸が震えました。
マクシミリアン1世, ベルンハルト・ストリーゲル作, 1508年以前の木に油絵

ヨーロッパの覇者ハプスブルク家の始まりは1273年頃、当時55歳だったルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になったことをきっかけにオーストリアに進出したと考えられています。 とはいえルドルフ1世も当時の他の王と同じく、自身の国を治め、王朝を広げるために外へ向かったのであって、末永く語り継がれるような特別な英雄ではありませんでした。あえて業績を選ぶなら、マルヒフェルトの戦いで敵の虚を突いた騎士道に反する卑怯な奇襲作戦を語ることはできますが。 しかし、上の写真にあるマクシミリアン1世は皇帝になった後、諸侯達が簡単に反乱を起こさないような、強力な権威を目標に動きました。ブルゴーニュ公爵夫人マリーと婚姻しブルゴーニュ公国を得て、息子と娘をそれぞれスペイン王室の王女、王子と婚姻させ、王国全体に加え植民地領土まで獲得します。その後、孫たちもボヘミア王室の王女、王子と結婚させ、東欧まで手に入れる偉業を残すことになりました。 マクシミリアン1世はハプスブルク家がヨーロッパの覇権を握ることができるよう基礎を固めた真の設計者だと言えます。

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